昨日、たまたま見ていたニュースで「今の若者がかつての被爆者に向けた手紙」というトピックが放映されていました。
今日、8月15日は終戦記念日です。日本人として、だれもが一度は戦争の凄惨さに思いをめぐらせる瞬間を持ったのではないでしょうか。
その手紙の朗読のなかで、そんな気持ちがふと萎えてしまった一文があります。
「生きたくても生きられない人がいるのに、自分で自分の命を殺めてしまう人が多いのはなぜなんだろう」
思っちゃったんですよね。
「自ら死を選ぶ人が、命の大切さを考えてないはずがないのに」って。
ニュースで「生きたくても生きられない人がいるなかで、自分で自分を殺めてしまう人がいるのはなぜなのか 戦争やコロナなどの体験を通してもう一度命の大切さを考えたい」というような内容の手紙が朗読されてたのだけど、自殺した人だって生きたくても生きられなかったんじゃないんですかね
— ひよぴ🐑🌹🧹生存戦略 (@hi4r1_xo) August 14, 2020
この記事は、特定の個人の考えや制作の意図を否定するものではありません。よって、直接的な引用ではなく、表現の一部に意訳を加えています。
「死にたい」気持ちが受け入れられない事実が孤独を深める
おそらく、その手紙を書いた女性は「理解できない」という批判ではなく、「理解したい」想いを込めてあえてその疑問に触れたのでしょう。
だけど、思い出したのは「みんながみんな死にたいと思ってるわけじゃないんだ」と知った頃の絶望でした。
わたしには数年前、自ら死のうとして失敗し、法律の保護のもと閉鎖病棟に入院することになった経験があります。
▶︎一度死んで「障害者」になったけど、わたしはぜんぜんカワイソウじゃない。
事務的に保護への手続きが進められていく過程で、警察や看護師に、「なんでそんなに死にたいの?」と繰り返し聞かれたときの彼らの呆れ顔。
それを見たとき、初めて「死んでしまいたいと思ったことがない人たち」の存在に気づいたのです。
そして、いつも心のどこかに「死にたい」気持ちが同居している自分は、どうやら少数派だったということに。
入院してしばらくしてやっと、担当してくれた医師と対話する機会に恵まれました。
対話のなかで彼は、「あなた自体がおかしいわけではなくて、死のうと考えたり、行動にうつすことが異常自体なんだよ」と教えてくれたのです。
さらに、慢性的に死を願う心の状態について、「希死念慮(きしねんりょ)」と呼ぶことを。
自分への捉え方が「死にたいおかしな人」から「希死念慮を持つ人」に変わった
自分の悩みを打ち明けたとき、「みんなそれぞれつらい想いを抱えてるんだよ」と諭された経験はないでしょうか。
だから、わたしはそれまで漠然と「だれもが自分と同じように、いつもどこかで死にたい気持ちでいるんだろう」と考えていました。
だけど、そんなのは我慢しなきゃいけないことで、やってはいけないことで、口にしないほうがいいからだれかの悲しい死が教訓になるのだと。
わたしもいつでもなんでもなさそうに、楽しそうにふるまわなきゃいけない。だって言ってしまったら、弱いとか、迷惑だとか思われてしまう。
そもそも、みんなつらいのは同じなのに、実際に死にたくなるような経緯があるのは運が悪くて恥ずかしいことだ。
そう、思い込んでいました。
それを巻き返す元気はもう、残っていなかったのです。「生きたい」と思えないのではなくて、自分への評価が「死ななくちゃいけない人間」になってしまったのです。
しかし、「希死念慮」という言葉を知ったおかげで、おかしいのは自分ではなく”状態”であると考えられるようになってきました。
「死にたさ」と自分のあいだに、境界線が生まれたきっかけでした。
「生きたくても生きられなかった人」にわたしたちができること
わたしは、一度「自分で自分を殺めようとした」身でありながら、自分が命や命の大切さを軽く扱っていたとは思っていません。
それは、多くの自殺で亡くなった方々や、今まさに死への想いを持つ人もそうであるはずです。
自殺未遂での入院で、未確定だったわたしの発達障害にやっと診断が降りたとき、母は言いました。
「発達障害って、ニュースで殺人事件起こしたりするあれでしょ。だから、あなたも命を粗末にしようとするのね」
生まれてすぐに、人を殺めたり、死のうとするような赤ちゃんはおそらくいません。どんな場合もそのほとんどは、環境にそうさせてしまう要素があります。
「命を大切にできない人」だから死に近づくのではなく、「命を大切にできない理由」があるのです。
むしろ、命や人生と真剣に向き合った結果が理解されないことで、孤独を深めて死を選んでしまうケースのほうが多いんじゃないでしょうか。
そういった偏見を受けたり、生きづらさへの事情を抱える人たちへの絶望は、「生きたくても生きられない人もいる」という理由では、けっして埋められないのです。
戦争の体験であれ、このコロナの状況下であれ、自殺への報道であれ、今わたしたちにできるのはそれを教訓に自分の「生き方」を模索してみることだけ。
どんなふうに生まれても、どんな出来事が起きても、そこからいくらでもなんとかなるような社会を、作っていくことだけ。
「生きていれば、いいことがあるから」というよくある言葉に、わたしは何度も苦しめられました。
「あのとき死なないでよかった」とは今でも思っていません。だってあの頃のわたしには、もうどうしようもなかったから。充分、生きるための手立ては尽くしたのだから。
「生きてれば(勝手に)いいことがある」なんて無責任な言葉は言いません。
でも今は、「生きてていいことがある保証はないけど、いいことを作るのは可能」なのだと知っています。
そして、それを伝えていきたいと思えるくらいには回復していったのでした。
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